道後温泉を深掘りレビュー!本館「神の湯」と飛鳥乃湯泉でたどる湯の歴史(愛媛県松山市)

湯め活びより道後温泉考察編のアイキャッチ画像

日本最古級の温泉として知られ、長い歴史を今に伝える道後温泉。
実際に湯に浸かってみると、なめらかな湯ざわりだけでなく、石造りの湯釜や独特の配湯方法、古くから受け継がれてきた入浴文化にも惹かれました。
そして歩いているうちに、「なぜ火山のない場所に熱い湯が湧くのか」「なぜ地震で湯が止まったのか」など、次々と興味が湧いてきます。
そこで今回は、現地で気になったことを手がかりに、道後温泉の湯と歴史について自分なりに調べてみました。

道後温泉で興味深かったこと
  • さらりとした湯ざわりの理由
    pH9.0の湯なのに、強いヌルヌル感がなかった理由が気になりました。
  • 加水せずに湯温を整える仕組み
    温度の違う複数の源泉を、どうやって適温にしているのか注目しました。
  • 火山がないのに熱い源泉の謎
    活火山のない四国で、50℃を超える湯が湧く理由を調べました。
  • 地震で止まった湯と人々の祈り
    大地震と湧出停止の記録から、湯祈祷に込められた背景をたどりました。
  • 湯帳と坊っちゃん団子の歴史
    入浴着や湯上がりのお菓子から、受け継がれてきた文化に注目しました。
目次

道後温泉ってどんなところ? | 4コマ漫画で体験してみる

ゆめにゃん

猫は入れないからフィクションにゃ…

道後温泉の魅力を詰め込んだ4コマ漫画。猫のゆめにゃんが歴史や源泉ブレンドの秘密、グルメや街歩きを紹介。

道後温泉レビューと注目ポイント考察

この記事は、筆者が実際に温泉を訪れた際に感じた「なぜ?」をきっかけに、温泉分析書や公開資料などを調べ、自分なりに考察した内容です。資料から確認できる事実と筆者個人の考察を分けて記載するよう努めていますが、専門家による学術的な見解や結論を示すものではありません。直接的な裏付けを確認できていない仮説や想像については、その旨を明記しています。一人の温泉好きが、分析書や資料を眺めながら考えた「温泉の自由研究」としてお楽しみください。

pH9.0なのにヌルヌル感は控えめ?道後の湯の浴感を分析書から考える

道後温泉本館さんの神の湯に初めて浸かったとき、最初に感じたのは「思ったよりサラッとしている」ということでした。アルカリ性単純温泉と聞いていたので、とろみのある湯を想像していました。肌をなでると確かにすべすべしますが、強いヌルヌル感まではない印象でした。

そこで、溶けている成分の量そのものは、それほど多くないのではないかと予想しました。日本温泉協会の泉質解説では、アルカリ性単純温泉は「すべすべ」する感触が特徴とされています。ただ、浴感はpHや成分量だけで決まるものではなさそうです。まずは分析書を見てみることにしました。

館内で確認した分析書によると、神の湯・霊の湯に使われているのは「道後温泉 第2分湯場」の湯です。令和5年12月6日に愛媛県立衛生環境研究所が分析したもので、泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)。pH9.0、源泉温度48.7℃、使用位置では42.0℃でした。溶存物質は0.2734g/kg、つまり約273mgです。松山市の「温泉の成分、禁忌症、適応症など」でも同じ分析書が公開されています。

単純温泉は、温泉水1kg中の溶存物質が1,000mg未満で、源泉温度25℃以上のもの。そのうちpH8.5以上がアルカリ性単純温泉です。道後の約273mgという数字は、1,000mgという基準と比べてもかなり控えめでした。

内訳も見てみました。陽イオンではナトリウムイオンが73.0mgで、ミリバル%では約94%。カルシウムイオンは3.4mgです。陰イオンでは炭酸水素イオン71.5mg(約36%)、塩化物イオン30.1mg(約26%)、ふっ化物イオン12.5mg(約20%)などが含まれています。さらにメタけい酸は52.0mgでした。

ここで面白かったのが、ふっ化物イオンとメタけい酸です。環境省が示す温泉法上の温泉の定義では、源泉温度が25℃未満でも、ふっ化物イオンが2mg/kg以上、またはメタけい酸が50mg/kg以上あれば温泉に該当します。もちろん道後は48.7℃あるので温度だけでも基準を満たしますが、成分だけを見ても、この二つがそれぞれ基準を超えていました。

予想どおり、成分総量は比較的少なめでした。カルシウムやマグネシウムも少なく、いわゆる軟らかい水に近い組成です。ただ、「成分が少ないからヌルヌルしない」「炭酸水素イオンが少ないからサラッとしている」とまで言い切るのは難しそうです。それでも、私が感じた「サラッとしているのに、肌をなでるとすべすべする」という浴感は、道後温泉公式サイトが紹介する「なめらかで刺激が少ない」という湯の特徴とも、大きくは離れていないように思いました。

そして予想外だったのが、ふっ化物イオンが陰イオンの約2割を占めていたことです。古い研究では、道後温泉の基盤は花崗岩で、温泉水はその岩盤の割れ目から湧出すると考えられていました。花崗岩と水中のふっ化物イオンの関係を調べた研究でも、花崗岩には比較的多くのフッ化物が含まれ、水中のふっ化物イオン濃度に影響する可能性が示されています。

道後の12.5mgという数字も、地下で水と岩石が触れ合う過程と何か関係しているのかもしれません。控えめな成分量の湯だと思って分析書を眺め始めたのに、最後に気になったのは地下の岩石でした。やっぱり温泉は、数字を見始めると別の沼が待っています。

加水なしでどう冷ます?道後温泉の分湯場と汽缶士の湯加減

本館で入浴したあと、道後温泉駅のすぐそばにある第4分湯場の手湯に触れてみました。思わず手を引っ込めるほど熱く、さっきの湯船とはまるで別物です。本館の案内には加温も加水もしていないとあったので、この熱い湯をどうやって42℃前後にしているのかが気になりました。

最初は、熱交換器で冷ますか、配管を長くして自然に冷ましているのかと予想しました。高温の源泉をどう適温にするのか。その仕組みを調べてみることにしました。

松山市の「道後温泉の源泉」ページによると、道後ではこれまでに29本の源泉が開発され、現在19本が愛媛県に登録されています。源泉温度は20℃程度から55℃程度までさまざまで、汲み上げた温泉は4か所の分湯場へ集められます。本館では、入浴人数や季節、時間帯に応じて温度の高い温泉と低い温泉を混ぜ、加温も加水もせずに湯温を調整しています。

さらに、第4分湯場の案内を見ると、ここに集まる6本の源泉はいずれも50℃前後。手湯は貯湯槽から直接、温度調節せずに供給されているそうです。あの熱さは気のせいではありませんでした。

答えは「冷ます」というより、温度の違う源泉同士を混ぜることでした。低温側も源泉なので、水道水などを加える「加水」とは違います。そして、この湯加減を支えているのが「汽缶士」と呼ばれる源泉管理の担当職員です。松山市の資料にも第2分湯場に汽缶士の詰め所があることが記されており、朝日新聞の取材動画では、複数の温度の湯をバルブで調整し、気温なども考慮しながら経験をもとに湯温を管理する様子が紹介されています。

気になって、浴場ごとの分析書も見比べてみました。本館の神の湯・霊の湯は第2分湯場で、pH9.0、溶存物質0.2734g/kg。椿の湯や飛鳥乃湯泉で使われる第1分湯場もpH9.0で、溶存物質0.2747g/kgです。ふっ化物イオンはどちらも12.5mg/kg。驚くほどよく似ています。松山市が公開している温泉分析書で確認できます。

さらに松山市の配湯施設の資料を見ると、第2分湯場には直接入る源泉だけでなく、第1分湯場と第4分湯場からも湯が中継されています。一方、第4分湯場からは第1分湯場にも送られています。つまり、それぞれ別の分湯場とはいえ、配湯の途中で共有されている源泉もあるわけです。

最初は「熱い源泉をどう冷ましているんだろう」という単純な興味でした。それが調べてみると、温度の違う源泉を組み合わせ、さらに季節や入浴人数まで見ながら人の手で調整する仕組みがありました。加水せずに42℃前後の湯を届ける裏側に、道後ならではの分湯場と汽缶士による細かな湯加減がある。そう知ると、さっき浸かった湯が少し特別なものに思えてきました。

湯口が石の円柱?道後温泉本館の湯釜と1200年以上前の湯釜薬師

神の湯の浴槽の真ん中には、大きな円柱形の石の湯口がどっしりと据えられています。多くの温泉では壁際に湯口がありますが、ここでは浴槽の中央から四方へ湯が流れ、全体へ広がっていくように見えました。

この形は見た目の演出だけではなく、昔の温泉の名残もあるのかなと思いました。もともと湯が湧いていた場所に石の湯口を置き、その姿が受け継がれてきたのではないか、と想像したのです。

愛媛県公式観光サイト「いよ観ネット」では、この円柱形の湯口を「湯釜」と紹介しています。また、道後温泉公式サイトの万葉集のページによると、神の湯男性浴室の湯釜には、713年に道後を訪れたとされる山部赤人の長歌が刻まれています。

さらに道後公園には、本館よりもはるか以前に使われていた石造りの湯釜が残されています。松山市文化財課の解説によると、この湯釜は浴槽内の湧出口に設置されていたもので、天平勝宝年間(749~757年)に作られたと伝えられています。1288年には河野通有の依頼によって、一遍上人が宝珠に「南無阿弥陀佛」の名号を刻んだとされ、現在の本館ができる1894年まで使われていました。

道後公園の案内では「全国最古の湯釜」と紹介され、現在は「湯釜薬師」として祀られています。

「昔の湧出口と関係した形なのでは」という予想は、少し当たっていたようです。少なくとも古い湯釜は、実際に浴槽内の湧出口に置かれていました。ただ、予想していなかったのは信仰との結びつきです。一遍上人の名号が刻まれ、役目を終えた後も湯釜薬師として祀られている姿を見ると、湯釜は単なる温泉設備以上の意味を持つ存在になっていったのかもしれません。

もうひとつ気になったのが石材です。松山市による又新殿の紹介では、皇室専用浴室の湯釜に、御影石の中でも最上とされる香川県産の庵治石が使われていると説明されています。

道後温泉は、松山市の資料では花崗岩類の割れ目から湧出する非火山性の温泉とされています。花崗岩の割れ目から上がってくる湯を、石で作られた立派な湯釜で迎える。そんな組み合わせまで含めて見ると、浴槽の中央にある湯口が、ただのお湯の出口とは少し違って見えてきました。

源泉かけ流しでも消毒?道後温泉の塩素と利用状況の掲示

神の湯に浸かっていると、湯気の中にかすかな塩素系の匂いを感じました。湯口に顔を近づけても、硫黄のような香りはほとんど感じません。加温も加水もしない源泉かけ流しですが、これだけ多くの人が利用する浴場なら、衛生管理のために何らかの消毒をしていても不思議ではありません。むしろ安心して入浴するためには、どのような衛生管理が行われているのかも気になります。そこで、道後温泉の湯使いについて調べてみました。

松山市の「温泉の成分、禁忌症、適応症など」を見ると、道後温泉本館・飛鳥乃湯泉・椿の湯では毎日の換水や清掃を行い、これまでレジオネラ症などによる事故は発生していないと案内されています。そのうえで、2003年施行の愛媛県条例を受け、入浴客の安心・安全を優先して塩素系薬剤による消毒を行っているそうです。

同じページでは、中央温泉研究所による分析結果として、塩素系薬剤の投入によって「泉質・効能にほとんど変化はない」と松山市は説明しています。一方、塩素消毒された温泉水については、2005年に酸化還元電位の観点から検討した研究も発表されています。塩素消毒をどのように捉えるかについては、導入当時からさまざまな議論があったことが分かりました。

予想どおり消毒は行われていましたが、調べてみると単純に「かけ流しか、消毒か」という話ではありませんでした。衛生管理を重視する考えがある一方で、温泉水への変化を別の指標から調べた研究もあります。私自身、匂いがまったく気にならないといえば噓になります。それでも、多くの人が利用する歴史ある浴場を安全に運営するための管理が続けられていることにも、目を向けたいと感じました。

浴場には分析書のほかに、加水・加温・循環ろ過・入浴剤・消毒の有無を示す利用状況の掲示もありました。分析書が「どんな湯なのか」を知る資料なら、こちらは「その湯が浴槽までどのように扱われているのか」を知る資料。この2枚を一緒に見ると、温泉の姿が少し立体的に見えてきます。

活火山がないのに55℃?道後温泉の熱源と花崗岩の割れ目を考える

本館の湯船の石を眺めていて、ふと不思議に思いました。四国には現在、気象庁が指定する活火山がありません。それなのに、なぜ松山の市街地で50℃を超える源泉が湧くのでしょうか。

私は、地下深くで温められた水が、何かの通り道を使って上がってきているのかな、と思いました。いわゆる非火山性温泉です。ただ、地下を掘ればどこでも同じように熱い湯が出るわけではないので、道後には温泉水が上がってきやすい通り道があるのかもしれない、と考えました。

非火山地域でも地下へ行くほど温度は上がり、産業技術総合研究所の解説では、その目安を100mにつき平均約3℃としています。一方、松山市の文化財保存活用地域計画では、道後温泉は花崗閃緑岩の割れ目から湧出する非火山性の温泉と説明されています。

さらに、産総研の研究では、道後温泉のように非火山地域に局所的な高温泉がある場合、浅い場所に特別な熱源があるというより、深部で温められた水が断裂に沿って上昇している可能性が示されています。

ここで最初の予想を振り返ると、「地下の熱+岩盤の割れ目」という考え方は、大きくは外れていなかったようです。ただ、源泉井戸そのものの深さだけを見て、「この深さで何℃になる」と単純計算することはできません。水がさらに深い場所まで循環し、そこで温められてから割れ目を通って上がってきている可能性もあるからです。

道後では現在、源泉によって20℃程度から55℃程度まで大きな温度差があります。松山市の「道後温泉の源泉」を見ると、同じ温泉地の中でも地下水の通り道や混ざり方が一様ではないことを想像させます。

最初は「火山がないのに、なぜこんなに熱いんだろう」という単純な興味でした。それが調べてみると、花崗岩の割れ目が温泉水の通り道になり、深い地下から湯を運んでいる可能性が見えてきました。浴槽の石を眺めながら、足元のさらに深い場所に温泉の通り道が続いているのかもしれないと思うと、道後の湯が少し違って感じられました。

大地震で何度も湯が止まった?日本書紀から読む道後温泉と地震

本館の横手の高台にある湯神社に参拝したとき、「湯祈祷(ゆぎとう)」という行事の名前が目に入りました。温泉地の繁栄を願うお祭りなのかなと思いましたが、具体的に何を祈るのかが気になりました。

私は、湯が「涸れないように」と祈る行事なのかなと想像しました。古い温泉地にとって、湯が出なくなることは大きな心配事だったはずだからです。

まず驚いたのが『日本書紀』の記録でした。国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると、天武天皇13年(684年)の大地震について、「伊豫湯泉」が埋もれて湧かなくなったという記述があります。この地震は白鳳地震と呼ばれ、歴史上記録された最初の南海地震とされています。

その後も道後温泉では、地震に伴う湧出停止が繰り返し記録されています。松山市の道後温泉歴史年表には、1707年の宝永地震と1946年の南海地震で湧出が止まったことが記されています。宝永地震では約145日後、1854年の安政地震では約61日後に自噴が再開したとする研究もあります。1946年の南海地震でも水位が大きく低下し、その後回復していく様子が記録されました。

そして湯祈祷にも、この歴史がつながっていました。四国災害アーカイブスによると、1707年の宝永地震で道後温泉の湧出が止まり、松山藩主が湯神社に祈祷を命じたと伝えられています。湯神社の由来記にも、止まった温泉の再湧出を祈ったことが湯祈祷の始まりと記されているそうです。現在の松山市も、湯祈祷を「地震で止まった湯が再び出始めたことに感謝して始まるお祭り」と紹介しています。

「湯が涸れないように」という予想は、半分当たりで半分外れでした。実際には、止まってしまった湯が「もう一度湧くように」と願う、もっと切実な祈りが背景にありました。

道後温泉の地震後の水位変化を調べた研究では、過去の南海地震に伴って湧出量や地下水位が低下し、その後回復する現象が確認されています。前に調べたように、道後の湯は岩盤の割れ目を通って上がってきます。だからこそ地下の変化が湧出にも表れやすいのかもしれない――そんな想像も浮かびました。

1300年以上前の記録から現在の湯祈祷までを知ると、湯神社で手を合わせるときの気持ちが、少し変わりました。

道後温泉の湯量はどれくらい?1日2,000トンを毎分に直してみた

本館の湯釜から四方へ流れ出す湯を見ていて、温泉地全体ではどれくらいの湯量があるのかが気になりました。分析書には源泉ごとの湧出量が記されていますが、道後では複数の源泉を汲み上げて混ぜているため、街全体の量までは分かりません。

外湯3館に加えて、たくさんの旅館にも配湯していることを考えると、毎分2,000リットル前後はあるのでは、と予想しました。

公開資料を探してみると、昭和59年発行の愛媛県史を公開している「えひめの記憶」の道後温泉の章に、当時の源泉からの総汲み上げ量は1日約2,960キロリットルとありました。そのうち約1,323キロリットルを62か所の内湯へ、約740キロリットルを共同浴場へ配湯していたそうです。

一方、松山市が運営する道後アートの公式アーカイブでは、利用可能な18本の源泉から汲み上げた温泉をブレンドし、1日約2,000トンを供給していると紹介されています。

水とほぼ同じ重さとしてざっくり換算すると、1日2,000トンは約200万リットル。これを1,440分で割ると、毎分約1,390リットルになります。昭和の約2,960キロリットルは毎分約2,060リットルなので、私の「毎分2,000リットルくらい」という予想は、むしろ昭和の数字にかなり近かったことになります。

ここで気をつけたいのは、この差をそのまま「道後の湯が細った」と考えてしまわないことです。現在の道後では複数の源泉を動力で汲み上げており、松山市の源泉井戸・配湯施設の改修計画でも、限られた源泉を保全しながら安定供給することが課題とされています。ある源泉の揚湯量を増やすことで、近くの源泉に影響する可能性も考慮されています。

また、松山市の「道後温泉の源泉」によると、本館の床に井戸跡が残る1号源泉は現在汲み上げていません。現在の揚湯量は、源泉の状態や利用状況、資源を守るための管理など、さまざまな条件の上に成り立っているようです。

毎分約1,400リットルもの湯を、外湯や旅館など街全体で分け合って使っている。そう考えると、湯釜から絶えず流れ出している一杯の湯まで、貴重なものに見えてきました。

なぜ服を着て入浴?又新殿と飛鳥乃湯泉の湯帳から見る入浴文化

飛鳥乃湯泉さんの特別浴室を予約して、「湯帳(ゆちょう)」という薄い衣を着て湯船に入ってみました。濡れた布が肌にまとわりつく感覚は初めてで、裸で入るときとは違う、不思議な温かさがありました。そもそも、なぜ服を着たまま入浴する習慣があったのかが気になりました。

私は、身分の高い人が周囲に肌を見せないための作法だったのかなと想像しました。飛鳥乃湯泉の特別浴室は、道後温泉本館にある皇室専用浴室「又新殿」を再現しているので、昔の貴人の入浴習慣が関係していそうです。

松山市が紹介する飛鳥乃湯泉の湯帳によると、湯帳は昔の「浴衣(よくい)」で、「ユカタビラ」とも呼ばれ、一定以上の身分の人が身につけたものと考えられています。現在の浴衣の原形ともいわれ、飛鳥乃湯泉ではそれを現代向けに再現した「道後湯帳」を着て入浴できます。

さらに、国立国会図書館の「江戸の粋・ゆかた」を見ると、「ゆかた」の語源は「湯帷子(ゆかたびら)」で、平安時代には貴人が湯浴みの際に着用していたと説明されています。裸体をさらさないためや、浴後の汗を吸い取るために使われたと考えられているそうです。その後、銭湯が普及した江戸時代には、入浴中に着るものから湯上がりの部屋着へと変化していきました。

「身分の高い人が肌を見せないため」という予想は、おおむね合っていたようです。それ以上に面白かったのは、今では湯上がりに着る浴衣のルーツが、もともと入浴の際に身につける衣にあったことでした。湯に入るための衣が、時代とともに湯上がりの装いへ変わっていったと思うと、温泉街を浴衣で歩く風景まで少し違って見えてきます。

再現元となった又新殿は、道後温泉公式サイトの「又新殿」によると、1899年に皇室専用の御湯殿として建てられました。「又新」という名前は、儒教の経典『大学』にある「苟日新、日日新、又日新」に由来し、殷の湯王が毎朝、自らを戒めるために器に刻んだ言葉と伝えられています。

本来は自分自身を日々新たにするという意味の言葉ですが、温泉の御湯殿の名前として眺めると、私にはどこか「湯に入り、また新しく一日を迎える」という響きにも感じられました。

湯帳を着て入ったあの数分間は、ただ珍しい入浴法を体験しただけではなく、裸で入ることが当たり前になる以前の入浴文化に、少しだけ触れる時間だったのかもしれません。

白鷺と玉の石の伝説は本当?道後温泉の開湯伝説を発掘成果と比べる

神の湯の壁を飾る砥部焼の陶板画には、道後温泉にまつわる伝説が描かれています。湯に足を浸す白鷺や神様の姿を眺めながら、こうした伝説はどこまで昔の道後の姿を伝えているのだろう、と気になりました。

全国の温泉地には、動物が傷を癒やしているのを見て温泉が発見されたという伝説が数多くあります。そのため私は、白鷺の話も後の時代に生まれた物語で、実際の温泉利用の始まりとは別なのだろうなと想像しました。

松山市が紹介する白鷺伝説では、傷を負った白鷺が岩間から出る温泉に足を浸したことが、道後温泉発見のきっかけとして伝えられています。松山市によると、この伝説の出典は1710年の郷土地誌『予陽郡郷俚諺集』です。また、道後温泉を「約3,000年の歴史」と紹介する際には、付近から縄文時代中期の土器が出土し、当時から沐浴が行われていたと推定されることも挙げられています。

もうひとつが「玉の石」の伝説です。松山市の「玉の石伝説」によると、大国主命が病気になった少彦名命を道後の湯に浸したところ元気を取り戻し、石の上で舞ったと伝えられています。もちろん、白鷺も神話も、それ自体を史実として確かめることはできません。

そこで気になったのが、発掘調査です。道後温泉本館の東側にある道後湯月町遺跡では、平安時代中期から後期ごろの池状遺構が見つかり、その埋土から硫黄成分が検出されています。松山市教育委員会の発掘調査報告書では、温泉に由来する可能性が高く、池そのものが温泉、あるいは温泉に関係する施設だった可能性も考えられるとしています。ただし、現在の温泉配管などの影響も否定できないとしており、結論は慎重です。

伝説を発掘成果で証明できたわけではありません。それでも私が面白いと思ったのは、白鷺伝説に「岩間から出る温泉」という描写があることです。前に調べたように、現在の道後温泉も岩盤の割れ目を通って湧き上がる非火山性の温泉です。もちろん、それだけで伝説が実際の景色を伝えているとは言えませんが、昔の人も岩の間から湯が現れる姿を見ていたのだろうか、と想像したくなります。

白鷺が本当に湯に浸かったのか、神様が玉の石で舞ったのか。それを確かめることはできません。ただ、伝説とは別に、発掘調査からも道後と温泉の長い関わりを考える手がかりが見つかっています。陶板画を眺めながら、史実と伝説の境目を想像してみるのも、古い温泉地ならではの楽しみなのかもしれません。

湯上がりの坊っちゃん団子は漱石が食べた団子と同じ?

本館の霊の湯三階個室で、湯上がりに浴衣でくつろいでいると、お茶と三色の団子が運ばれてきました。温まった体に、甘い餡と渋めのお茶がよく合います。ふと、この団子は夏目漱石が道後で食べたものと同じなのだろうか、と気になりました。

私は、小説『坊っちゃん』に登場する団子を、そのまま受け継いだものなのかなと思いました。三色の見た目も、漱石が松山にいた明治の頃から続いているのかもしれない、と想像したのです。

現在の道後温泉本館では、松山市の「よくあるご質問」によると、霊の湯三階個室でお茶と坊っちゃん団子が提供されています。一方、神の湯・霊の湯の二階席のお茶菓子は名所煎餅です。

三階個室で提供されている坊っちゃん団子については、菓匠うつぼ屋さんの商品紹介に、抹茶・白あん・小豆の三色の餡で求肥を包んだもので、道後温泉本館のお茶菓子として親しまれているとあります。

ところが、小説『坊っちゃん』に登場する団子屋のモデルとされるのは、別の「つぼや菓子舗」さんでした。つぼや菓子舗の公式サイトによると、初代・相原吉五郎は1883年(明治16年)から「湯晒団子」を販売しており、小説『坊っちゃん』の発表後、二代目がその湯晒団子をもとに三色の「坊っちゃん団子」を考案したそうです。

つまり、予想は外れました。漱石が実際に食べたと伝わるのは現在のような三色の坊っちゃん団子ではなく、上新粉の餅を餡で包んだ素朴な「湯晒団子」でした。松山観光コンベンション協会の「湯晒団子」紹介でも、漱石が松山中学赴任中に道後温泉の帰りに食べた団子として紹介されています。

さらに「湯晒し」という名前も気になりました。つぼや菓子舗さんへの取材では、当時の湯晒団子について「湯にさらした餅をあんこで包んだもの」と説明されています。どうやら温泉の湯そのものを使うというより、団子の作り方に由来する名前と考えるのが自然そうです。

面白いのは、「つぼや」さんと「うつぼ屋」さんというよく似た名前の二軒が、現在の道後と坊っちゃん団子にそれぞれ違う形で関わっていることです。本館で食べた三色の団子は、漱石が食べた団子そのものではありませんでした。それでも、漱石が道後帰りに味わった湯晒団子が小説に登場し、そこから新しい名物が生まれ、今では本館の湯上がりのお茶菓子にもなっている。そう考えると、一皿の団子から文学と温泉街の歴史がつながって見えてきました。

ゆめにゃん

湯に浸かり、伝説をたどり、温泉を守る人の想いを知る。
次の休みは、道後温泉で「湯とともに重ねてきた時間」を感じる旅に出かけませんか?

道後温泉の泉質を楽しむ

道後温泉はアルカリ性単純温泉で、複数の源泉を組み合わせて利用しています。成分分析書を眺めながら、pHや溶存物質と実際の湯ざわりを比べてみるのも、温泉好きならではの楽しみ方です。

源泉かけ流しを支える工夫

温度の異なる源泉を組み合わせ、加温・加水をせず適温へ調整するのが道後温泉の特徴のひとつ。浴槽に注がれる一杯の湯の向こうに、分湯場や源泉管理を担う人々の工夫が隠れています。

道後温泉本館の湯釜

道後温泉本館の浴槽で目を引くのが、中央に据えられた石造りの湯釜です。古い湯釜は道後公園にも残されており、一遍上人の伝承など、道後と湯が歩んできた長い時間を感じさせます。

道後温泉の歴史をたどる

古い記録や伝説だけでなく、地震による湧出停止や湯祈祷など、道後温泉には湯を守ってきた歴史があります。現在の一杯の湯から過去へさかのぼってみると、温泉地の見え方も少し変わります。

道後温泉の入浴文化

皇室専用浴室として1899年に建てられた又新殿や、湯帳を着て入浴できる体験など、道後には湯そのものだけではない入浴文化が残ります。昔の人がどのように湯と向き合ってきたのかにも注目です。

温泉マニアあるある! – 道後温泉考察編

ゆめにゃん

マニアの人はこうなっちゃう…かも!?

pH9.0なのにサラッとしていて首をかしげる

アルカリ性単純温泉と聞けば、入る前から「これはヌルヌル系かな」と勝手に予想。しかし神の湯に浸かると、「あれ? 意外とサラッとしてるぞ」と首をかしげます。そこで分析書を見つけ、溶存物質の数字まで確認して「なるほどねぇ……」と一人納得。湯ざわりの答え合わせまでが入浴です。

分析書の0.0001gまで気になる

溶存物質0.2734g、成分総計0.2735g。「ん? この0.0001gはどこから来た?」と、誰にも頼まれていない計算を開始。遊離二酸化炭素0.1mgを見つけて、「ピッタリじゃん!」と歓喜します。もはや温泉を楽しんでいるのか、小数点を楽しんでいるのか分かりません。

熱い手湯で分湯場に目覚める

第4分湯場の手湯に触れて「熱っ!」。普通ならそれで終わるところ、マニアは「この熱い源泉を本館ではどうやって適温に?」と新たな興味が発生します。温度の違う源泉を組み合わせていると知れば、「加水じゃなくて源泉で調整するのか!」と大興奮。温泉街で配管の向こう側まで気になり始めます。

湯釜を見て湯口から離れられない

神の湯の中央に鎮座する大きな石の湯釜。マニアは浴槽に入った瞬間から「あれ、普通の湯口じゃないぞ」と視線を奪われます。四方へ流れる湯を眺め、昔の湯釜や一遍上人の伝承まで調べ始めれば、もはや湯口ひとつで歴史散歩。浴槽の中央にロマンまで湧いて見えます。

火山がないと知って地面の下を考える

「四国って活火山ないよな……じゃあ、この50℃を超える源泉はどこで温まった?」。湯船に浸かっていたはずが、いつの間にか頭の中では地下数百メートルへ潜っています。花崗岩、断層、破砕帯という言葉が出てくると、なぜかドヤ顔で「なるほど、通り道があるのか……」。同行者はだいたい聞いていません。

湯神社で急に真面目になる

普段はpHだの湧出量だの騒いでいるマニアも、地震で湯が止まり、再び湧くことを願った歴史を知ると急に静かになります。「温泉が湧くって、当たり前じゃないんだな……」。湯祈祷に込められた人々の願いを知り、いつもの一杯の湯まで少し違って見える。たまにはちゃんと感動もするのです。

1日2,000トンを毎分に直す

「1日約2,000トン」と聞いても、そのままでは終われません。「えーっと、200万リットルを1,440分で……毎分約1,390リットル!」と即座に電卓を召喚。同行者から「それ計算して何になるの?」と聞かれても、「毎分のほうが湧出量っぽくてテンション上がるだろ!」。理解されなくても本人は満足です。

湯帳を着た瞬間だけ気分は貴人

飛鳥乃湯泉の特別浴室で湯帳を身につければ、「これが湯帷子につながる文化か……」としみじみ。ところが数分後には「つまり浴衣のご先祖様を着て入浴してるのか!」とテンションが上がります。又新殿や昔の入浴文化に思いを馳せつつ、ちょっとだけ姿勢まで良くなるのは気のせいでしょうか。

美しい映像を見ながら次の温泉を考える

プロジェクションマッピングを前に、普通なら光と映像の美しさに見入るところ。ところがマニアは「明日はあっちの温泉に行って、そのあともう一湯いけるかな……」と、頭の中で次のルートを組み始めます。目の前では華やかな映像、脳内では温泉地と温泉地を結ぶ謎の地図。こうして周囲からは”湯めぐりマッピング”とあだ名されてしまうのです。

管理人

管理人いじりですね…
そう呼ばれるのも悪くない!

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この記事を書いた人

温泉巡り歴15年。
トロトロのお湯と硫黄の香りが大好物。
なのに他の泉質にもすぐハマってしまう。
休日は山奥の秘湯へ直行。
そして、猫が好き。

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