玉造温泉をもっと深掘り!泉質・源泉と古代の歴史をたどる湯の物語(島根県松江市)

湯め活びより玉造温泉考察編のアイキャッチ画像

『出雲国風土記』にも記された古湯、玉造温泉。
玉湯川沿いに温泉街が続き、古代の玉作りの歴史と今も湧く温泉が同じ土地に重なっているところに、ほかにはない面白さを感じました。
分析書を眺め、古い記録をたどっていくと、源泉や地質、勾玉、お殿さままで、気になることが次々に出てきます。
「玉造はどのようにしてこのような温泉地になったのだろう」。そんな興味から、現地で感じたことを手がかりに、少し深く調べてみました。

玉造温泉で興味深かったこと
  • 分析書で異なる数字と香り
    同じ施設の資料なのに、成分値や香りの表現が違うことが気になりました。
  • 花仙山の玉作りと温泉の関係
    古代の玉作りと温泉が近い土地にあることから、地質的なつながりに興味を持ちました。
  • 風土記に残る「川辺出湯」
    約1300年前に記された「川辺の出湯」は、どんな景色だったのか想像が膨らみました。
  • 古代の玉職人と温泉の接点
    温泉のそばで玉を作っていたなら、作業にも湯を使ったのではと妄想しました。
  • 松江藩主が残した入湯の記録
    お殿さまが訪れたという話から、当時の温泉管理や入湯記録まで気になりました。
目次

玉造温泉ってどんなところ? | 4コマ漫画で体験してみる

ゆめにゃん

猫は入れないからフィクションにゃ…

玉造温泉の魅力を詰め込んだ4コマ漫画。古湯の歴史や泉質、出雲の味覚、勾玉散策をゆめにゃんが紹介。

玉造温泉レビューと注目ポイント考察

この記事は、筆者が実際に温泉を訪れた際に感じた「なぜ?」をきっかけに、温泉分析書や公開資料などを調べ、自分なりに考察した内容です。資料から確認できる事実と筆者個人の考察を分けて記載するよう努めていますが、専門家による学術的な見解や結論を示すものではありません。直接的な裏付けを確認できていない仮説や想像については、その旨を明記しています。一人の温泉好きが、分析書や資料を眺めながら考えた「温泉の自由研究」としてお楽しみください。

同じ長楽園なのに、分析書の内容が違う理由を考えてみた

長楽園さんで温泉分析書を眺めていて、現地で確認した内容と、後から見た公式サイトの温泉成分表に違いがあることに気づきました。香りだけでなく、泉温やpHなどにも差があります。「同じ長楽園の温泉なのに、どうしてだろう」と興味を持ち、両方の資料を見比べてみることにしました。

すると、そもそも分析した時期や湧出地の記載が異なっていました。現地で見た分析書では湧出地が326-5の1か所。一方、公式サイトの成分表には複数の湧出地が記載されています。ここで私は、「もしかすると複数の源泉を組み合わせた湯を分析した結果が、公式サイトに掲載されている数値なのでは?」と考えました。もちろん、これは公開資料を見て私が想像しただけで、実際の混合方法までは確認できていません。

それでも今回面白かったのは、同じ施設の温泉分析書でも、数字だけを並べて比べればよいわけではないと気づいたことです。いつ分析したのか、どこを湧出地としているのか、どの湯を対象にしているのか。そうした背景まで追ってみると、同じ温泉でも見え方が少し変わってきます。

低張性なのに印象に残る、成分総量と浴感のギャップ

玉造温泉に入ってみると、するりとしたやわらかな肌あたりという印象を受けました。そこで気になったのが、「分析書では、この湯はどれくらい成分の濃い温泉なのだろう」ということでした。

長楽園さんの温泉分析書を見ると、溶存物質総計は1.64g/kg。泉質はナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物温泉で、「低張性弱アルカリ性高温泉」と記されています。環境省の鉱泉分析法指針では、塩類泉は溶存物質が1g/kg以上、浸透圧による分類では8g/kg未満が低張性とされています。つまり、塩類泉として分類されるだけの成分を含みながら、浸透圧の区分では低張性に入る温泉です。

ここで面白いと思ったのは、「低張性」という表示と、実際に湯に入ったときの印象は別の尺度だということでした。低張性はあくまで溶存物質量などをもとにした分類です。また、分析書に並ぶ成分だけを見て、特定の浴感の原因がわかるわけでもありません。

成分総量が多いほど個性的に感じるとは限らず、数字だけでは分からない部分がある。分析書を見たあとで改めて湯に入ると、「1.64g/kgという数字と、自分が感じたこの湯ざわりはどうつながっているのだろう」と、また一つ気になることが増えました。私にとって玉造は、そんな数字と体感を見比べたくなる温泉でした。

花仙山の青めのうと今の温泉は、同じ地下の物語なのか

玉造温泉を歩いていると、勾玉と温泉があまりにも自然に同じ風景へ収まっています。そこで気になったのが、「勾玉の材料になった花仙山の青めのうと、今ここに湧いている温泉は、地下では何か関係しているのかな」ということでした。最初は、昔の熱水活動が青めのうをつくり、その名残が現在の玉造温泉へ続いているような景色を想像していました。

調べてみると、前半はかなり面白い話でした。島根大学などによる2024年の地質学会発表では、花仙山周辺の青めのう(碧玉)や玉髄は、中期中新世の大森層にあたる安山岩溶岩の中に脈状や気孔を埋める形で産し、安山岩溶岩由来の揮発成分が形成に関与したと考えられています。島根大学のジオサイト解説でも、花仙山は約1500万年前に大量の溶岩を噴出した火山だったと紹介されています。

では、その熱水活動が現在の玉造温泉へ直接続いているのでしょうか。ここは私の予想ほど単純ではなさそうでした。産総研の「松江地域の地質」では、玉造温泉の温泉水は花崗岩類から湧出し、川合層の砂岩・礫岩中に滞留するものが多いと整理されています。また、古い地質学会資料では断層や花崗岩活動を温泉形成と結びつける見方も示されていますが、花仙山の青めのうをつくった中新世の熱水活動と、現在の温泉が同じ熱水系だと直接示す資料まではみつけることができませんでした。

それでも、同じ土地の中に「かつて熱水変質を受けた岩」と「今も湧く温泉」が存在しているのは十分に面白いところです。最初は一本につながっていると思いましたが、調べるほど地下の歴史は別々の時代や岩石が重なっているらしい。勾玉を眺めると、今度はその石の奥にある1500万年前の地質まで気になってきます。

古代の玉職人も、温泉を使っていたのだろうか

玉造という名前の通り、この一帯では古代から盛んに玉作りが行われていました。島根県「出雲玉作跡」によると、遺跡からは約30棟の玉作り工房跡が確認され、勾玉などの未成品や、石を磨くための外磨き砥石・内磨き砥石なども出土しています。「これだけ温泉の近くで玉を作っていたなら、職人たちは作業にも温泉を使ったことがあったのかな?」という妄想が膨らみました。

さらに調べてみると、島根大学「花仙山のメノウ脈と出雲玉作跡」では、花仙山の麓に玉作り遺跡が数多く分布し、その周辺には『出雲国風土記』の記述に関連する川辺の出湯跡も紹介されています。また、島根県の学習資料「古代の勾玉づくりに挑戦」を見ると、原石を割り、筋砥石や内磨き砥石を使いながら形を整えていく工程が紹介されています。水を使った作業場の風景を想像すると、すぐ近くに湧いていた温かい湯を利用したこともあったのでは……と、さらに想像したくなりました。

ただ、今回確認した発掘資料や自治体・大学の解説からは、古代の玉作りに温泉水を利用したことを示す記録や遺物は確認できませんでした。まして、温泉の成分が研磨や洗浄に役立ったと考える根拠も見つかりませんでした。実際にどのような水を使い、どこで作業していたのかまで、今回の資料から読み取ることはできませんでした。

それでも、玉作りの遺跡と古くから湧く温泉が、これほど近い土地に残っていると知ると、つい二つを結びつけてみたくなります。湯けむりのそばで、勾玉になる石を黙々と磨いていた職人はいたのでしょうか。答えは分かりません。でも、そんな想像まで膨らんでしまうところが、玉造という土地を調べる面白さなのだと思いました。

集中配湯と自家源泉、同じ玉造でも分析書は違う?

玉造温泉の分析書を見ているうちに、「同じ温泉街なのに、宿によって数字が少し違うな」と気になりました。調べてみると、玉造には松江市の「玉湯温泉供給施設」があり、契約先への配湯を行っています。一方で、長楽園さんや湯陣 千代の湯さんのように、自家源泉を利用する宿もあります。なるほど、同じ「玉造温泉」でも、そもそも浴槽へ届くまでの入口が一つではありません。

そこで集中配湯系の分析書と、自家源泉の分析書を見比べてみました。泉質名はいずれもナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物温泉ですが、泉温や成分量、知覚的試験などの数字や表現には少しずつ違いがあります。ただし、分析年月日や採水地点、対象となる源泉が異なる資料を、そのまま横並びにして比較することはできませんでした。「同じ泉質名だから同じ湯」と思っていた私には、この違い自体がむしろ面白く感じられました。

湯口に立つと、注ぎ方や香り、析出物の様子までつい観察したくなります。ただ、それらを分析書の差と直接結びつけるのは別の話。今回は玉造という一つの温泉街に、集中配湯と自家源泉という複数の楽しみ方が共存していることに興味が広がりました。分析書を見るときも、数値だけでなく「この湯はどこから来たのだろう」と考えると、湯めぐりがまた少し面白くなります。

『出雲国風土記』の「川辺出湯」は、どんな景色だったのだろう

玉造温泉を歩いていて興味を持ったのが、温泉街の真ん中を流れる玉湯川です。現在も川に沿って旅館や足湯が並んでいますが、約1300年前の『出雲国風土記』には、この地について「即川辺出湯」と記されています。國學院大學デジタルミュージアムが公開する『出雲国風土記』本文にもこの記述が残っており、国立国会図書館の解説でも、現在の玉造温泉にあたる「川辺に湧く出湯」に多くの人々が集まっていた様子が紹介されています。

そこで私は、「当時はいったい、どんな場所から湯が湧いていたのだろう」と想像しました。現在のように整備された浴場へ配湯される温泉ではなく、少なくとも風土記を書いた人の目には「川辺から湯が出ている」と表現したくなる景色があったんだろうなと思いました。後世の資料には、近年まで玉湯川の河原に露天風呂があり、風土記の「川辺出湯」をそれに関連づける見方も紹介されています。これは『日本歴史地名大系』の玉造温泉の解説でも確認できました。

一方、今回確認した資料からは、約1300年前の具体的な湧出位置や湧き方までは分かりませんでした。それでも、現在の玉湯川を眺めながら「この川辺のどこかで、昔の人も湧き出す湯を楽しんでいたのだろうか」と想像できるのは面白いところです。古代の正確な景色は分からなくても、「川辺に湯が湧く」という約1300年前の記録と、今も温泉街の中心を流れる川が同じ場所に残っている。玉湯川を歩くとき、風土記の短い一文が急に風景を持ちはじめるように感じました。

宍道湖と玉造温泉、近くの「塩」は同じ由来なのか

玉造温泉の分析書を眺めていて、塩化物イオン(Cl⁻)が含まれているのを見ると、ふと北側に広がる宍道湖が気になりました。宍道湖は汽水湖。これだけ近くに塩分を含む大きな湖があるなら、「玉造の温泉に含まれる塩化物も、どこかで同じ海水の影響を受けているのかな?」と最初は想像しました。地図で見ると、つい二つの水を結びつけたくなりました。

まず宍道湖について調べると、こちらの塩分の由来はかなり明快でした。島根県「宍道湖・中海の塩分」によると、斐伊川などから淡水が流れ込む一方、日本海の海水が境水道から中海、大橋川を経て宍道湖へ入ります。平均的な塩分は海水よりかなり低いものの、現在の海とつながった水循環によって汽水環境がつくられているようです。

では玉造温泉はどうでしょう。産総研「松江地域の地質」では、玉造の温泉水は鵯花崗岩や大東花崗閃緑岩から湧出し、その多くが地下20~120mほどの川合層の砂岩・礫岩中に滞留しているとされています。また、深い掘削で花崗岩類の割れ目から温泉水を得ている源泉もあります。少なくとも、宍道湖の湖水そのものが地下へ入り、そのまま玉造温泉になっているという説明ではありませんでした。

今回確認した資料だけでは、塩化物イオンそのものの起源まではわかりませんでした。宍道湖では今の海と川を巡る水、玉造では岩盤や砂岩・礫岩の地下を巡る温泉水。同じ土地のすぐ近くに「塩」を含む二つの水がありながら、その道筋はずいぶん違って見える――。そう気づくと、宍道湖の景色まで少し違って見えてきました。

江戸時代の玉造温泉は、誰が管理していたのだろう

玉造温泉を調べていると、長楽園の名称に付いている「湯之助」という言葉が気になりました。単なる昔風の呼び名なのかと思っていましたが、調べてみると実際に江戸時代の玉造温泉に存在した役職でした。長楽園「長楽園の歴史」によると、松江藩から任命された湯之助は、元湯や公衆浴場の管理、湯賃の取り立てなどを担っていたとされています。温泉そのものを管理する人物が藩によって置かれていたと知り、「昔の玉造は、どんな仕組みで湯を守っていたのだろう」と興味が湧きました。

さらに面白いのが、その管理の痕跡が古文書として残っていることです。松江市「市指定文化財」には、玉造温泉に関する松江藩の管理や湯之助の役割を伝える「湯之助文書」154通のほか、藩主入湯時の「御入湯御用御宿割図」「御入湯御用御宿割帳」、約100年間の藩主入湯を記録した「上御入湯日記留」が指定文化財として紹介されています。島根県の資料によれば、宿割帳には文政2年(1819)の八代藩主・松平斉恒、天保2年(1831)の九代藩主・松平斉貴の入湯時の記録も残されています。

一方、元々私は「現在の旅館配置にも、江戸時代の温泉統制の名残が残っているのでは」と想像していました。しかし、今回確認した資料からは、現在の街路や旅館の配置が当時の管理制度をそのまま受け継いでいるとまでは確認できませんでした。また、「御殿湯」という名称や、身分ごとの入浴規則、湯株制度についても、今回参照した松江市の公開資料では裏付けを取れませんでした。

それでも、玉造温泉をただ「古い温泉地」と見るのと、藩主の入湯を記録する帳面があり、温泉を管理する役職まで置かれていたと知って歩くのとでは、町の見え方が少し変わります。湯そのものだけではなく、誰が守り、誰が管理し、どのように人を迎えてきたのか。江戸時代の玉造には、温泉を一つの社会の仕組みとして動かしていた痕跡まで残っていました。

湯口の白い付着物、その正体は何だろう

玉造温泉で湯口や浴槽の縁を眺めていると、場所によって白っぽいものや淡い色の付着物が目に入ることがあります。温泉分析書にはカルシウムイオンやメタケイ酸なども記載されています。「この付着物も、温泉に溶けていた成分の析出物だよな」と興味を持ちました。いつものことではありますが、温泉に入っているのに、気づけば浴槽の縁を観察しています。

産総研「地熱の湯あか(スケール)」では、温泉や地熱水から生じるスケールとして、炭酸カルシウムや鉄系の沈殿物、シリカ鉱物などが紹介されています。一方、日本地熱学会誌の研究を見ると、シリカ系スケールの析出にはpHや温度だけでなく、マグネシウムなどの共存成分も関係することが示されています。見た目だけで「これはカルシウム」「これはシリカ」と判断できるほど単純ではなさそうです。

分析書にカルシウムやメタケイ酸が載っているからといって、浴槽で見つけた付着物の正体まで分析書だけでわかるものではありません。実際に何が析出しているのかを確かめるには、付着物そのものを分析する必要があるのでしょう。近年の温泉水を対象とした研究でも、シリカは水中で重合してコロイド粒子となり、スケール形成へつながる複雑な過程が研究されています。「温泉水中のシリカコロイド粒子のサイズ評価」を読んでも、私が浴槽を眺めただけで正体を当てられる相手ではなさそうです。

それでも、温泉分析書を読んでから湯口を見ると、「この白いものは何だろう」「なぜここだけ色が違うのだろう」と新しい興味が生まれます。正体までは分からなくても、湯が流れ続けた場所に少しずつ残された痕跡を眺める。それも温泉を楽しむ一つの方法だと思います。

勾玉の形は、温泉の湯けむりに似ている……気がした

玉造温泉を歩いていると、街のあちこちで勾玉の形を目にします。そんな勾玉を眺めているうちに、どうでもいいことが気になりました。「この丸みのある形、川辺から湯が湧いて、湯けむりがふわっと立ち上がる姿にも見えないか?」。玉作りと温泉が同じ土地にあるからこそ思いついた、完全に私の妄想です。

一応、真面目に調べてみました。島根県「出雲玉作跡」によると、花仙山の南西麓にある出雲玉作跡では、古墳時代前期から平安時代にかけて大規模な玉作りが行われ、碧玉・めのう・水晶などを使った勾玉や管玉などが生産されていました。また、島根県「奈良時代の玉作り」では、この地域での玉作りは弥生時代末ごろに始まったと紹介されています。

ところが、ここで私の妄想に重大な問題が発生しました。勾玉そのものは玉造よりずっと広い地域で、さらに古い時代から存在しています。文化庁「文化遺産オンライン」の勾玉には、縄文時代後期・晩期の東日本を中心に発達した「獣形勾玉」が紹介されています。別の縄文時代の資料には、自然石に大きく手を加えず穿孔したD字形の勾玉もあります。つまり、少なくとも「玉造の温泉を眺めた職人が、湯けむりをもとに勾玉という形を生み出した」という筋書きは、時系列から考えると成立しそうにありません。

では、勾玉は何をかたどったのでしょう。これも簡単には答えが出ないようで、文化庁が紹介する子持勾玉についても「何を形象したかが明らかでない」とされています。少なくとも今回確認した資料から、玉造の勾玉と温泉の湯けむりを結びつける根拠は見つかりませんでした。

それでも、玉作りの一大拠点と古い温泉が同じ土地にあると、つい二つを結びつけて遊びたくなります。古代の職人が湯けむりを見ながら勾玉を磨いていた可能性くらいなら……いや、それも③で調べて分からなかったのでした。結局、勾玉の形と温泉を結びつけたのは、今のところ私の頭の中だけ。それでも街角の勾玉を見るたび、湯けむりに見えてしまいそうです。

ゆめにゃん

湯に浸かり、勾玉を眺め、千三百年の物語に思いを馳せる。
次の休みは、玉造温泉で「古代出雲の湯けむり」をたどる旅に出かけませんか?

硫酸塩・塩化物泉の湯

玉造では硫酸塩泉と塩化物泉の特徴をあわせ持つ湯が見られます。泉質名だけでなく、分析書のイオン組成まで眺めると、同じ分類の温泉と比較したくなる面白さがあります。

自家源泉を楽しめる宿

温泉街には集中配湯だけでなく、敷地内の自家源泉を利用する宿もあります。同じ玉造という温泉地の中で、源泉や湯使いの違いに目を向けながら巡れるのは、温泉好きには興味深いポイントです。

集中配湯を支える温泉街

玉造には温泉を供給する施設があり、温泉街を支える仕組みそのものも注目したいところ。自家源泉との違いを意識すると、「この浴槽の湯はどこから来たのか」という新しい見方が生まれます。

風土記に残る川辺の出湯

『出雲国風土記』には、現在の玉造温泉に結びつく「川辺の出湯」が記されています。現在の玉湯川を眺めながら、約1300年前にはどんな湧出風景が広がっていたのか想像できる古湯です。

湯之助が守った温泉文化

江戸時代には「湯之助」と呼ばれる役職があり、松江藩と温泉の管理・運営との関係を伝える文書が残されています。お湯そのものだけでなく、「誰が温泉を管理してきたのか」まで追えるのが面白いところです。

温泉マニアあるある! – 玉造温泉考察編

ゆめにゃん

マニアの人はこうなっちゃう…かも!?

分析書を見つけると入浴前に立ち止まる

せっかく玉造温泉まで来たのに、浴槽より先に脱衣所の温泉分析書へ吸い寄せられるマニア。「ナトリウム・カルシウム-硫酸塩・塩化物泉か……」と読み始め、同行者はすでに浴室へ。「ちょっと待って、源泉名だけ確認するから!」と言いつつ、pH、泉温、分析年月日まで見始めます。湯に入る前から、すでに温泉は始まっているのです。

透明な湯ほど観察時間が長くなる

無色透明の湯を見ると、普通なら「きれいなお湯だね」で終わるところ、マニアは湯口へ移動。「透明だからこそ湯の動きが分かりやすいんだよ」と、オーバーフローの方向まで観察します。友達が「全部お湯じゃん」と言っても、「注がれ方も温泉の個性だから」とドヤ顔。静かな浴槽の前で、一人だけ忙しいのです。

浴槽の縁を見つめすぎて怪しまれる

湯口や浴槽の縁に白っぽい付着物を見つけると、「これは何だ……?」と突然しゃがみ込むマニア。カルシウムなのか、シリカ系なのか、それとも別の成分なのか。見た目だけでは分からないのに、分析書と交互に眺めて考え込みます。友達からすればただの浴槽の縁。でも本人には、湯が残した小さな手がかりに見えてしまいます。

源泉名が違うだけでテンションが上がる

同じ温泉地でも、集中配湯の湯があれば自家源泉を使う宿もある。そんな話を知った瞬間、「じゃあ分析書も見比べたい!」となるのがマニアです。友達が「同じ玉造温泉でしょ?」と言えば、「いやいや、そこからが面白いんだって」と追撃開始。温泉街を巡っているはずが、いつの間にか源泉探訪になっています。

玉湯川を見ると1300年前へ飛ぶ

玉湯川沿いを歩いているだけなのに、「『出雲国風土記』にもこの辺りの湯が出てくるんだよね」と突然奈良時代へ飛ぶマニア。友達が桜や街並みを見ている横で、「昔はどんなふうに湧いてたんだろうなぁ……」と川辺を凝視します。現在の景色を見ながら、頭の中だけ約1300年前へ時間旅行しているのです。

勾玉を見ると温泉に結びつけたくなる

街角の勾玉を見つければ、「これだけ温泉の近くで玉作りしてたなら、作業に湯を使ったこともあったのかな」と妄想開始。さらに形を眺めて「なんか湯けむりにも見えてきた」と言い出します。調べても直接裏付ける資料は見つからない。それでも「想像するだけなら自由だろ!」と満足そう。玉造では考古学まで温泉に巻き込みます。

温泉旅行なのに古文書の話を始める

普通なら泉質や露天風呂の話をするところ、「江戸時代の藩主の入湯記録が残ってるらしいよ」と歴史方面へ脱線するマニア。友達が「温泉の話じゃなかった?」と聞けば、「いや、殿さまが温泉に入ってるんだから温泉の話だろ」と即答。気づけば湯船から松江藩まで話が広がっています。

「分からなかった」ことまで楽しみ始める

地質を調べ、分析書を読み、昔の記録まで探したのに、最後まで答えが分からないことがほとんどです。普通ならそこで終了ですが、マニアは「いやぁ、結局分からなかったな!」となぜか楽しそう。「じゃあ何のために調べたの?」と聞かれても、「分からないことが分かっただろ」と満足顔。答えより、調べている時間そのものを楽しんでいます。

「湯之助」を現代風に翻訳したがる

「玉造温泉にはさ、松江藩のもとで温泉を取り仕切る『湯之助』って役目があったんだよね」と得意げに語るマニア。友達が「へぇ……」と返すと、「湯銭を集めたり、湯宿をまとめたり、藩主の入湯にも関わったり……今風にいえば『松江藩公認・玉造温泉総合プロデューサー』みたいな感じかな」と、頼まれてもいないのに知識を追撃。まわりからは”湯めぐりお殿さま”とあだ名されてしまうのです。

管理人

管理人いじりですね…
そう呼ばれるのも悪くない!

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この記事を書いた人

温泉巡り歴15年。
トロトロのお湯と硫黄の香りが大好物。
なのに他の泉質にもすぐハマってしまう。
休日は山奥の秘湯へ直行。
そして、猫が好き。

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